余命を伝えること

余命を話し合うことは、本当にむずかしい。伝えることが一般的になっているけど、それがいつも正しいとも言えないことにも遭遇することもあり、いつまでたっても答えはでない。そんなことを考えさせられる出会いであった。

患者さんは、ある日とある消化器がんと診断され、残念ながら治療の余地がないほど進行していたため、病院での治療ではなく、在宅での緩和医療を希望され、ともクリニックを訪れてくださった。
数回の自宅訪問で、私には違和感があった。ある仕事を真面目に取り組まれ、管理者にもなられと聞いていたが、訪問して話をしていても目線を合わせてくれない。テレビをつけたままで、そちらばかりを見ている。少し失礼とも取れるような態度で、そっけないようにも思われるが、質問にはしっかりと答えてくれる・・・。どこか、よそよそしいような、何かが食い違っていると思われる感覚であった。

最初の訪問の最後に、お気持ちを聞かせてほしいと伝えた時、「自分はいつ最後を迎えてもいいと覚悟ができている」とおっしゃった時、悲しそうな表情で、元気づける言葉がけをした家族がいた。愛しい人が人生の最後を迎えようとしていることを目の当たりにして、なんとか元気づけたい、少しでも長く一緒にいたいという強い気持ちがヒシヒシと伝わってきた。その気持ちは当然だと思う。
これ以前の面談で、家族だけに最初にお会いした時、辛い話は本人には言わないでほしいと言われ、涙ぐんでいた姿を思い出す。病院で悪い話を聞いた時に一気に弱っていく姿を見て、これ以上は言わない方がいいとのことであった。痛いほどわかる家族の愛情だが、本人がどう思っているのか?私は少し気掛かりの中、訪問診療を始めていた経緯があった。

何回かの訪問の後、今のお気持ちを聞かせてもらってもいいですか?と問いかけた時、「家族や、先生に怒られるかもしれないけど、自分はあと、どれぐらいの時間があるのか?」と質問があった。『怒られるかも』という言葉が印象的で、自分のことを気遣い必死に励ましてくれる家族への本人なりの配慮、悲しい現実を直視して家族を落胆させたくないという気持ちなんだろうと私は理解した。同時に、「いわないでほしい」という家族の要望が私の態度に出てしまっていたのか?結果的に私にまで気を使わせてしまうことになり、自分の態度を反省した瞬間でもあった。

この質問をうけたとき、私はこの人は自分の残された時間が長くないことを感じているんだろうと思った。その根拠はない。ただ、衰えている体力、それは私が見ていてもわかっていたので、本人はもっと感じ取っているのだろうと推測した。なので、もっと気持ちをしりたいと思った私は、質問で返す失礼をわびた後、なぜそういうことを知りたいのかをうかがったところ、「あと、どれぐらい家族に迷惑をかけなければならないのか・・・」と言葉を詰まらせておられた。

そのあと、私は率直に考えていることをお伝えした。その訪問の終わりに、「今日はすっきりした」と伝えてくれた患者さんの表情は、私にはこれまでみせてくれたことがなかったように思えてならなかった。

本人に伝えるべきかどうか?おそらく、やはりケースバイケースなんだろう。ただ、今回のように本人が気を使わないように接する態度を自分は身に着けるべきだと思う。同時に、本人が死期を感じ取っている状況はやはりあろうだろう。そんなときには躊躇せずに話し合うほうがよいのかもしれないと考えさえられた。

「あと、どれぐらい生きられるのか?」この質問に躊躇しない医療者はいないと思う。その言葉には様々な思いが含まれているからだろう。そのすべてを受け止めることは無理だろうけど、少しでも理解を深めるために、質問に質問で返すことは失礼だけれども、どうしてそういうことを話し合いたいのか?と聞くことが最初の1歩になるのかもしれない。

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