自律と安全

高齢者の診療に従事していると、いつもこの問題に立ち止まる。


残念ながら年齢や色んな疾患などで身体機能や認知機能が低下してしまうことがあり、それでも、いっぺんに消失するわけではないので、これまで自分でしてきたこと、楽しんでいたことをそのまま続けたいというように思うのは当然のことだろう。でも、失われた機能のため、それが“安全”にできないようになると、医療ではそれが問題になる。

例えば、脳梗塞などで下肢の麻痺が残るが、なんとか自分で歩いて生活したい。しかし、転倒の危険があり、安全にはできないため、どうするか?そういったことだが、リハビリや装具、あるいは地域のリソースによる介護で多くの場合は希望を汲み取り、できるだけ自律して生きられるように取り組んでいるのが現在の医療の実情だろう。でも、時に自律と安全を保つことができずにトラブルになることもある。

今年に入って、ある重度の心臓病を抱えて在宅闘病をされていた高齢男性が息を引き取った。どうにかして家に居続けたいと思う気持ちが強い方で、その望みを最後まで貫いた人生の幕引きであったが、そこに至るまでにはいくつかの自律と安全の葛藤があった。

約2年ほど前に循環器内科の専門医より余命宣告を受け、自宅での闘病を続けらていた。心臓疾患の影響で、体がむくんだり、血圧が維持できずにふらついたりする中でも家での生活をなんとか続けておられ、そのサポートをさせていただくようになったのは半年ほど前であろうか?病院に通院するのが難しいということでともクリニックが関わらせていただくようになったと記憶している。

重い心臓病のため、トイレへ行くのでも急に動けなくなったり、ベッド横に落ちてしまって戻れなくなり訪問看護を何度も呼び出しては介助してもらったりしたことも度々であった。入院も一緒にかんがえ、話し合ったこともあったが、やはり家に居たいという気持ちがとても強いようで、入院したらもう戻って来れないということも恐れているようでもあった。そうやって自律を守ろうとする一方で、急に動けなくなったり、呼吸困難が増悪するなどの安全面での危惧もあり、夜中に救急車を呼んだりして家族には迷惑をかけたくない、もっとひどくなったら妻に負担がかかるのが申し訳ない、と気持ちを吐露されていたことを思い出す。それでもなんとか介助で入浴できている間は・・・というのが本人の口癖であった。

自律と安全、いつもその両輪を守るのは難しい。安全を尊重すれば、入院が妥当であったと考えられる。でも、家でしたいことを続けたいという自律は損なわれる。家族や医療者はどうしても安全を尊重しがちであるが、自律が制限された人生を送る本人の気持ちをどのように受け止めるべきなのか?自律を尊重することに伴うリスクをどれだけ軽減できるのか?あるいはどうやってそれを受け入れるのか?在宅診療ではこういったことを常々話し合って道を模索することが続いていく。

この患者さんには自律の尊さを教えていただいた。とても明るく発想豊かな方で、ベッドで動けなくても、YouTubeなどを見て、色々と夢想し、これをしたい、あれをしたいと考えるだけでも人生の喜びを感じておられるようであった。ある日、訪問すると、ベッドサイドにペットボトルを切って水が入れてあるような容器があり、そこに小さな植物の種のようなものが置いてあった。本人曰く、野菜を育てているとのこと。お風呂に入るのがやっとでも、いつか自分だけで別宅にいってそこで一人で生活したい。家族に迷惑をかけることなく一人で生活をする、その時に野菜を摂ることができるように自宅の中で栽培を始めたというのである。驚いた。すごい発想だと、自律したい、家族に迷惑をかけたくない、そんな気持ちが屋内野菜栽培に結びついたのか?とても現実的ではないことだが、本人は至って真剣であった。想いをわかってもらうためにハンガーストライキまでして訴えたりしたのち、私は流石に無理だと思っていたが、実際に別宅生活を実行までするから本当に驚いた。結局、動けなくなって周囲が助けるという結果になったものの、本人は満足しており、嬉しそうであった。それに付き合っていた家族や介護者は大変な思いをしたことも理解できるが、自律を守ること、尊重することで、その人の満足や人生での楽しみになること、そのことを教えていただいたと思っている。

育てていた野菜の花が咲いたある朝、本人はいつもいたベッドの上で息を引き取られた。きっとなくなる直前まで、いや亡くなられた今でも、育った野菜をどうやって活用して、次にどんな楽しいことをするか?自律を貫くか?を試行錯誤されている、そんなふうに思う。

ペッドボトルを加工して作った容器で育てられている野菜

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